「小広州」と呼ばれる
《新寧雑誌》によれば、明弘治十二年(1499年)に、新会県の北峰山の西に新寧県を設立し、上坑朗に木の枠組みで県城を築きました。明正徳年間(1506年以後)に、台城は増築し、煉瓦をもって木の枠組みを入れ替え、東、西、南の三つの門を設立し、北部が三台山に接するので、門を設置しなかったのです。現在、城壁が全てなくなったけれども、城東路、環城南路、城西路及び環城北路などの道名から、また当時の市区の範囲を確認することができます。台城は今まで500年あまりの歴史を持ちました。
台山には海外へ生計を図りに行った人が多いので、清朝の末には、大量の資金が寄せ返られていました。特に台山を中心とする新寧鉄道の竣工は、内外の交流を促進しました。大量の物資は台城へ流れ、城外にある西寧市と西門?も徐々に拡大しました。1924年に、台城のは城壁が解体され、道路が作られ、建物が建てられ、市区が西寧市、西門?と一つにつながりました。それに相次いで東側と南側の丘に、紗帽山下の台山県立第一中学、珠峰山頂に台山県立師範学校、?基山下のに台山華僑中学(もとは台山県立女子師範学校)、猫山に私立培英中学を設立しました。台城の商業も漸次に繁栄して来ました。1938年の統計によると、当時の台城人口はもう27000人以上に達し、全県には金店31ヶ所、銀行26ヶ所、蘇杭店(布店、服装店)162ヶ所、茶屋、料理店、氷室などの飲食店299ヶ所、旅館20ヶ所、劇場2ヶ所などがありました。その時の台城は、国内に知られていた消費都市になって、「小広州」と呼ばれていました。
今の台城は、台山市政府の所在地で、台山政治、経済、文化、教育の中心になっています。町の面積は35平方キロメートルで、人口は30万人です。改革開放してから、台城の工業、農業、商業、科学技術、文化、教育、衛生、体育及び観光などの事業は盛んで発展しています。
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